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今村先生からのメッセージを掲載しています。

目次

埼玉大学合気道部50周年記念「知命」 掲載文より

埼玉大学合気道部50周年記念誌 表紙:柳佳里
 

 


 

埼玉大学合気道部 創立五十周年にむけて

駆け抜けた!

平成27年5月吉日 今村 樹憲

□プロローグ

埼玉大学合気道部創設時のメンバーは、大学二年生と一年生。そのメンバーを合わせて埼玉大学合気道部の一期生と呼ぶのが本当かも知れない。

翌年、多くの三期生が男女交えて入部。創設時の礎を共に築いた。

うとまれ、いやがられても、学生生活の大半を合気道に投入し続けた。

特に一期の石垣さん、佐藤さん、麻生さん、杉山さん、そして二期の田口さん、荒木さん・・・。いろいろゴメン、そしてア・リ・ガ・ト・ウ・・・。

 

□部も私も五十年!

埼玉大学合気道部は今年の四月で創立五十年目を迎え、私は、合気道を始めて今年の三月でまる五十年という大きな節目を通過します。

私にとっても、埼大にとっても、とても大切な時を更に積み重ねています。

現在の現役合気道部員はもちろん、OBの人たちもほとんどは合気道部創設の経緯と、その一年前に私が合気道を始めた時のきっかけなどをご存知ないと思うので簡単に触れたい・・・と思います。(文章は基本的に「である調」になっています。ご了承下さい。)

 

□見ずして入門

うろ覚えだが、昭和39年(1964年)の2〜3月頃だった。私の家の近くに住んでいる大学生が雑談の中で、「白髪のおじいちゃんが数人の若い弟子たちをころころ投げていたよ、すごいねえ!」と、多分演武会を見た感想だと思うが、私に話してくれた。「合気道という武道だったよ」とも添えていた。その時は、何気なく聞いていた私だったが、何故かこのことが無意識のうちに心にしっかり焼き付いたのだろう。いつか合気道をやろう!と一瞬の決めを心に打っていたようだ。振り返って考えると、とても不思議な感覚だった。それまで武道と呼ばれるものには全く関心がなかったのだから・・・。

一年後、大学の入学も決まってほっとした後に、一年前の合気道の話を思い出した。そのまま新宿の本部道場へ向かい、即、入門した。

合気道がどういうものなのかちゃんと自分の目で確認したのは、入会手続きを終えてからだったと記憶している。不思議だが、合気道を見ずして、先に入門したのである。どうしてこんな行動をとったのか・・・。生まれる前から既に決まっていたレールに素直に乗ったとしか言いようがない行動だった。

 

□雷と神人開祖・植芝盛平先生

本部道場で最初の稽古の日(だったと思うが)、道場の壁に掛けられている木剣か杖を何気なく手にした時、道場の奥の方からまさに雷が鳴ったような響きで「何をやっておるんじゃ!!」という声が聞こえて来た。最初は何だろうと思っていた私も、やや間を置いて、どうやら私のことを叱っておられるのだと察した。

「初心者が剣や杖を持つものではない!合気道の体術を十分に体得してから剣や杖を使うものじゃ!!」と、こんなお叱りの言葉を、私に、というより、道場内の全員に覚らせるように話をされた。

その後で、開祖の合気道のご指導、さらに、途中でとても難解な言霊のお話しや、合気道の本来の姿、役目、合気道人の心構えなどを語っておられた。(実は、内容の半分も私には汲み取れていなかったことを覚えている。)

開祖のお姿を拝見して、私は、生まれて初めて持った感覚を体験した。

「植芝先生は、人間の形をしているが、私が知っている人間という存在をはるかに超えている。」不可思議だったが、開祖のお姿の広がりと深さに、人間を超えた存在を感じていた。その開祖のお姿から更に大きな光の輝きのような響きは、後の日比谷公会堂での杖を持たれての神楽舞の動きの中で更に鮮明に感じ取っていた・・・。

□直轄新橋道場

昭和40年(1965年)春、最初は本部道場だけだったが、新橋に本部直轄道場があり、通うようになった。大学に通うようになってからは、通学の途中に新橋道場があったので、平日はほとんど新橋道場で稽古するようになった。

その後まる一年間、月曜日から土曜日まで、一日も休まず稽古を続けた。その効があってか、昭和41年の春には既に初段の審査に合格していた。当時直接ご指導頂いた先輩方、特に増田誠寿郎先生や小出武夫先生には、本当に厳しく温かく接して頂いたことに感謝している。

月曜日から土曜日まで、毎日指導される先生方が変わる・・・。本部道場で教えておられる開祖高弟の師範から、若手の指導員の先生方まで、少人数の道場生が狭い道場で直接ご指導を頂く機会に恵まれた。山口先生、藤平先生、五月女先生、有川先生、東平先生、一橋先生、当時としては、若手の金井先生、千葉先生、若手と言われる中でも明るく、元気で親しみやすい雰囲気で指導して下さっていたのが、小林保雄先生だった。

 

□部を創ろうか

ここから、埼大合気道部の創設の話に入る。

私が初段を頂いた後、故二代道主植芝吉祥丸先生から、「今村君、これからも道場で稽古を続けるのか、それとも・・・。」という問いかけがあった。

実はまだ埼大には合気道部がなかったので、私自身、大学で合気道部を創ることも一つの道だなという想いを抱いていた。その想いをそのまま、吉祥丸道主にお伝えすると、「それなら是非、大学で合気道を始めたらどうか。」という強いおすすめがあった。吉祥丸道主は、大学での合気道の普及に大きな期待を寄せられていた。当時は未だ、合気道自体が一般の人に知られていなかったし、ごく一部の大学でしか、合気道の組織はなかった。

私が吉祥丸道主のお考えに賛同すると、「じゃあ誰かを大学に指導のために派遣しよう、誰がいいかな?」と私の意向も汲んで下さるように問いかけて下さった。

最初は、新橋道場の直接の大先輩でもある増田誠寿郎先生を心に思ったが、増田先生は、その当時、築地の魚河岸の若大将と呼ばれ、早朝から仕事をされていた。埼玉まで夕方から夜にかけてご指導に来て頂くのは時間的に難しいとわかっていたので、本部の先生方のどなたかにご指導頂くことになった。吉祥丸道主と私の間で、即決のように、小林保雄先生にお願いすることを決めた。

 

□人も道場も借りて

あとは、合気道をやってみたい、やってみよう、という学生を集めるだけ・・・。ではなく、稽古する場所の確保という問題もあったが、まずは学生集めから始めた。

今、埼大の現役と多くのOBの方々がお世話になってきた石垣晴夫さんとは、既に人を集める前から顔見知りで、私の合気道部構想も理解していただいていたので、一緒に学生の勧誘を募った。二十名近くは集まってきたか・・・。その半数のメンバーは他の部活やサークルと掛け持ち。何とか数を集めたにすぎない。しかも、私以外のメンバーは誰も合気道を経験したことがない。

最初の稽古の場所は柔道場。使えるだけでもありがたかったが、少し肩身の狭い想いもしながら、しばらくの間は、昼休みに柔道場を借用し稽古を続けた。

一週間に一度、指導に来られた小林先生も、全員が合気道を知らないこともあり、初めのうちは、全て私に指導を任され、小林先生は、道場の隅で木剣を振りながら時を過ごすこともあったように記憶している。

 

□日本一をめざす

今、思い返して見ると、合気道部創設当時、私の意識の中にははっきりした意志と想いがあった。一つは、日本一と自分たちが誇れる大学の合気道部を創ること。そのためには、胸を張れる稽古をする!その想いが強過ぎたのか、稽古の内容も厳しかったようだが、私が他の部員に与えるブレッシャーもすごかったらしい。らしい、というのは、自分ではさほど意識せず、突っ走るだけの想いだったから。何を持って日本一とするのか、それは非常にあいまいであったが・・・。

それとは別に、合気道の技の奥にある、合気道の精神、この世での合気道の使命のようなものを私なりに汲み取り、体現して行きたい、という想いも心の中に芽生えていた。

 

□望んだ道は

吉祥丸道主は、ある時、「私は、いつも我即宇宙と心の中で言っています。開祖もそうでした。」とお話になられたことがある。道統が大切なのは、このような開祖の合気道の精神と技を大切に受け継がれてこられているから。この中に私が道統を大切にする、とても大事な「道主」という存在の精神的な核が表されていると受け止めている。

大学卒業前に、本部道場のある先生から、一緒にアメリカに行かないかとお誘いを受けたことがあった。しかし、私の道は、普通の社会人としての生活を営みながら、合気道の精神と技の鍛錬を怠らずに一生合気道を続ける、というものだった。そう思う心の中には、開祖が開拓団の団長として北海道の白滝に入植し、未開の地を開墾しながら、武道の鍛錬も積まれておられた「農武一如」的なこともあったと思う。

 

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□育ての親、周囲の支え

大学で始めた活動が二年目にして早くも部に昇格。そして、四年後(?)には合気道の専用の道場も大学から用意して頂くという、他の大学からは、羨望の目で見られたほど、埼玉大学合気道部の歩みは順調だった。

合気道部の創設は、私が立役でしたが、それ以降、現役部員の日々の指導とOBのメンバーのまとめ役には石垣さんが大きな力となり、埼玉大学合気道部のみならず広く合気道界に貢献されてきました。

もちろん、大きな支えとなったのは、今でもご指導を頂いている小林保雄先生であり、吉祥丸道主の心を引き継がれ、ご指導ご支援を頂いている現道主植芝守央先生の存在です。今でも時に厳しく、時に温かい眼ざしで支えて下さっている元顧問の萩原先生をはじめ、多くの諸先生、先輩方、本部道場の皆様、そして埼大のOBの諸君と数えあげたらきりのないくらいの多くの方々のご支援ご協力を頂いて、ここに、五十周年を迎えることができました。

改めて、部の創設に関わり、埼玉大学合気道部のOBの一員として、お世話になった皆様方に心より深く感謝申し上げます。ありがとうございます。

皆様のご健勝を祈り、合気道の本来の姿が世界中にますます拡まって行くことをここに心から願うものであります。

 


 

付録1

ゴメンと感謝のエピソード

■ゴメン、石垣さん。

新人歓迎の演武会だったか・・・。当て身のつもりのパンチが石垣さんの歯に当たり、石垣さんの前歯が2〜3本飛んで行った・・・。(もともと差し歯だったらしいけど・・・)

更に石垣さん、足の靭帯も数本切断していた、これも私のせい?

その痛みをこらえてみんなで飲みに行った・・・。翌日、石垣さん行きつけの長島医院の先生に怒られた。「何をやってるんじゃ!」

(石垣さんと私の話は別葉「大切な存在、石垣さん。」をお読み下さい。)

 

■ダブルゴメン、麻生さん

四年生の時のむつめ祭での演武会。当時としては多くの観客の見守る中、空手部ご一行様も我が合気道部の演武に注目。その日に備えてか、同期の一人、佐藤さんが、自分で鍛えた一振りの少し短めの日本刀を用意。観客の前で、紙をその真剣で切り、切れ味の良さを示す。演武の受けはやはり同期の麻生さん、私の頭上に真剣を振りかざす。相手の脇に入った私は定番の入り身投げ。相手の刀の先が向きを変え相手の首筋近くに返る。その瞬間、「ヒュッ」とした音が聞こえたような気がした。「ああ、やっぱりやばい!」耳たぶあたりに少し赤い線が引かれていた・・・。

小手返しの技も真剣で。小手を返した瞬間、受けの麻生さん、あまりの痛さに思わず持っていた真剣を離してしまった。今でも鮮明に覚えているが、手を離れた真剣が、天井に舞い上がり弧を描くように上昇し、きびすを返すように剣の先を下に向け落ちてきた。スローモーションで見ているような動きだった。そして、最後に「ブスリ!」と畳に突き刺さった。一瞬会場がシーン。あ然という感じだった。

更に、その後がある。5人掛けだったか・・・。私の演武は今でもそうだが、全くのリハーサルなしのぶっつけ本番。相手が私目がけて掛かってくる。掛かってくる相手を軽やかにスピーディーにさばいていたつもりが、最後の麻生さんのところで間が詰まった。思わず、私独特の柳蹴りとでも言うような蹴りが麻生さんの腹部に入ってしまった。二、三秒そのままの体制から、麻生さんは腰を落とし、そのままうずくまってしまった。全く動けない。すぐに救急車を呼んだ。

これだけでも大変なゴメン、なのに、演武会が終わると、いつものようにみんなで飲みに行った。麻生さんが病院に担ぎこまれたこともすっかり忘れたかのように・・・。後日聞いた話では、かなり危険なところに蹴りが当たってしまったようで、内蔵破裂しかねなかったくらい、だと麻生さんは言っていた(よね?)

全部ゴメン、ゴメン。

 相手にパンチを与えたり、蹴り込んだり、絶対にアブナイ、お互いの幸せになりません。今は、決してそのようなことはしていません。たとえ、やくざさん10名に囲まれてもそのようなことはしませんでした。(私の小冊子「合氣神髄」参照)

 

■アリガトウ佐藤さん

同期の佐藤さんには、アリガトウ以外の言葉が思いつかない。

 合気道部創設時から、稽古場の確保に力を注いでくれた。石垣さん、田口さんなど他の部員相手の良き調整役で、私の無理を黙って不満一つ言わず、温かく優しい雰囲気で包んでくれた。最強最良のマネージャー役を素で演じてくれました。今も私と他のOBたちのパイプ役です。(是非、佐藤さんの生命がひびく絵画をご覧下さい。)

 

■杉山さんどうしてる

同期で一番の高齢者。最初からニンマリ落ち着いていた・・・。小柄だが、理論武装の闘士だった。当時は大学紛争のさ中だったこともあり、杉山さんは確か、全学連全共闘の幹部だった?その行く手には私がふさがり無理矢理、真反対の右翼的な武道の道に誘い込んでしまった。途中で、又、向きを変えるのかと思いきや、卒業まで合気道をやり通してしまった。一番苦手なことに身を投じようとしたのか・・・。地味な存在が周囲に無言の勇気を与えていた・・・。アリガタイ。

 

■二期であり一期の田口さん

一番私を疎ましく嫌な存在と今でも思っていても不思議ではない。二代目の主将として私の跡を継いでゆくのだから。私の主観ではなく、田口さんの心を代弁すると、「なんでこんなにいびられ、厳しくされるのか、わからない」と当時はいつも心の中でぼやき、石垣さんともぼやき、呼応する。

そんな「ぼやき」を育成させた私は何?これは田口さんのある小さな一面で。私からのプレッシャーにもめげず、合気道の精神を身に収め、文武両道の道を見事に学生生活の中で熟成させたことがとてもすばらしい。

社会人としても商社マンとして確かな足跡を残し、今、合気道の分野でも田口さんらしいしっかりした組織体制で、道場と道場生を育んでいる。これは最近実感したことです。

 

■しんがり荒木さん

二期で残ったのは田口さんと荒木さん。私の厳しさで二人となった二期生。この荒木さんはすべてがどこ吹く風。いつもひょうひょうと何事もなかったようにややとぼけてにっこり。荒木さんのすごさは勉学、合気道という文武両道に加えて、大学の夜警バイト。大学の構内にいつも寝泊まりし、夜は時間ごとに校内の見廻り。そのため、普通の睡眠時間は取れず、稽古でもいつも眠たそうな顔をしていた。自分の学費、生活費を稼ぐだけでなく、弟さんの面倒も見ていた。そのお陰もあってか、弟さんは、東大から総務省のトップキャリアまで昇りつめた。弟さんとも2〜3度会ったが、「兄には頭が上がらない」と言う。そうだよね、荒木さん自身も大手の広告代理店で現役を退いた。よかった、よかった、物語オ・ワ・リ。

 

■小林先生

合気会本部道場以外で合気道界最多の道場数、道場生を有する小林道場の創設者であり、埼玉大学合気道部を創設時からご指導頂いて来たのは、皆様ご存知の通り。私の仲人でもあります。

「継続は力なり」をご自身の言動で示され表し続けて来られました。私が大切にしている「生き方」の大手本です。その継続は、技にも人との接し方にも表れています。技は基本を大切に、基本を忠実に、基本を活かした興味深い応用技も楽しく学べる稽古の味付けとなっています。温かく親しみやすいお人柄が多くの合気道人の賛同を得ています。小林先生の基礎体力は超常です。確かJR新大久保駅から本部道場まで、行きも帰りもうさぎ飛びで通われたとか・・・。誰に対しても気軽に温かく接するお姿を通して、多くの人々が合気道を楽しむ機会を得ることができました。

そんな、色々な面でお世話になってきた小林先生に対して、私は十分な敬意と感謝の意を表しては来なかったと思っています。申し訳ないという気持ちと反面、少し距離を置いてお付き合いさせて頂く、という気持ちがあるからだと思います。

 夫々の道場の代が移り変わり、ご子息が跡を継ぐことが多いと思います。後継者の人たちが開祖の合気道の心と技を正しく受け止め、実践して行くことを望んで止みません。合気道小林道場も、そうあってほしいと差し出がましいのですが、そう願っています。

 

 

■道主について

 日本の天皇制について、一部に批判の向きもあるかも知れません。私は天皇陛下(昭和天皇)があられたからこそ、マッカーサー元帥を感動させ、戦後の日本の復興と繁栄の礎が築かれたのだと確信しています。

天皇制と比較するのは不適切と思われるかもしれませんが、植芝家という存在も私にとってはとても類似した存在であり、お立場であり、大切なお役目を担っておられると受け止めています。

最初に現道主植芝守央先生にお会いしてから30年以上の時が経っています。吉祥丸道主からは、平易に言えば「息子と仲良くやってくれよ」と恐れ多くもありがたいお言葉を頂くこともありました。

そのお気持ちにお応えし、守央道主を陰ながら支えて行ければという想いと、ちょうど天皇陛下に接する時と同じような特別な緊張感を守央道主にお会いし、ご挨拶する時に覚えます。

オープンで気さくな守央道主についうっかり、「ため口」とは言わずとも、あまりに気軽な会話をしようとすると、一方の自分が心の中で「もっとちゃんと接しろよ。」と言っているような気がして、躊躇することがしばしばです。

守央道主がまだ本部道場長であられた頃、本部の朝稽古を終え外に出た時、「さよなら」と手を振ってにこやかに私を見送って下さった。私も何気なく、笑顔で手を振り返していたら、私と一緒に側にいた増田誠寿郎先生に、「今村君、これからはちゃんとおじぎをして挨拶して別れなよ。次の道主になられる方なのだから・・・。」と半ば冗談まじりで悟されました。その後、増田先生が朝食をおごって下さいました。

 それから、これも本部道場での稽古の帰り、当時の守央本部道場長から「今村さん空いてる?」と声をかけられ、近くのお寿司屋さんでご馳走になりました。その時のお気持ちがとても有り難く、うれしく私に響いて来たことを今でもしっかりと胸に刻んでいます。

 

■増田先生について

小出武夫さんも一緒に紹介です。合気道入門からまる一年間は、このお二方を中心に、新橋道場の方々に身を以てご指導頂きました。増田先生、いつもニコッと笑って、畳にたたきつける。バックドロップもどきの合気落としもお得意技でした。合気道を続けて五十年。今まで一度も怪我、外傷はありません。但し、一週間の記憶喪失があった様な・・・。お陰様で、私の受け身は飛躍的に上達しました。そして、今も受け身をとることが大好きで、自ら率先して受けを取っています。

 増田先生にはお世話になりっぱなしで何のお返しもしていません。私が入門し、まだ一年も経たずに初段の審査を受けることになりました。早すぎる、という事で周囲の方々は余り良い顔をされませんでした。積極的に審査を勧めて下さったのが増田先生と吉祥丸道主のお二方でした。吉祥丸道主の目の前で、初段の審査を受けました。合格後皆さんに心から祝福して頂いたのも、増田先生のお陰でした。

 

■昼も夜も小出さん

 ところで小出さん。いつもなのですが、倒れてくれない。力んでいたり、技のかけ方の道筋が違うと、てこでも動かない。本当に小柄できゃしゃな体格なのに・・・。随分悩まされた。おかげで「力」に頼らず、道筋が明確な動きの技が否が応でも身につきました。

 いつも稽古が終わると銀座のスナックへ。学生にとっては、こんなありがたい補習講座はありません。飲んでいても合気道の話から話題は外れません。酔えないよ。

社会人になって場所は江戸川へ移っても、この特別講座は続きました。夜遅くなると小出さんの邸宅(マンション)へ・・・。2〜3年間は、この習慣を続けていたように記憶しています・・・。

小出さんのお兄様が、当時日本有数の剣の達人と評された方で、テレビでもよく拝見しました。お兄様に、合気道の稽古の後に、剣をご指導頂いた。ある時、お兄様から、「今村君、剣のすじがいいね。剣の道に移らないか?」と本気か冗談かはっきりしないが、そう言われたことを憶えています。

今でも、剣は他の方より正確に使えると自負しています。お陰様で。

まだまだエピソード、たくさんありますが、ひとまずこの辺で・・・・・・。

 

ゴメンナサイ

アリガトウ

オシアワセニ

 

P.S

 なにせ五十年の年月が経っています・・・ので、私の頭の記録データベースが、あいまいな記憶や推測に経年変化をもたらしていることがあると思います。

もし、私以上に質の高いデータベースをお持ちの方は、是非私の話に加筆修正を加え、正確なストーリーをお伝え下さい。

 

 

 


 

付録2

大切な存在、石垣さん

現役にとっても、OBにとっても、私にとっても、そして、合気道界にとっても石垣さんの存在はとても大きい。そして影響力がある。

 

■出会い

石垣さんのことは、どこまで触れるか迷った。今まで本意を伝えるチャンスがほとんどないまま、長い年月が経っている、と私は感じている。

最初の出会いから、記憶をたどりながらひも解いてみる・・・。

大学一年の後期くらいだったろうか。きっと石垣さんの方が正確に覚えていると思うが、大学の生協の食堂・喫茶室で、お互い授業をさぼって時間をつぶしていた二人が何となく、声を掛け合ったことが最初の出会いだった。

私は新橋道場で合気道の稽古していて、石垣さんは確か野球部に所属していたと思う。何度か会い、話をしているうちに石垣さんは野球部を退部すると言う。年が明けて、私が初段を取得する頃から、大学内での合気道の活動を行いたいという私の意向を伝え、石垣さんは私と一緒に合気道の賛同者を集めようと同意し、行動を共にしてくれた。もっと詳しく正確ないきさつ、その後の経過は石垣さんが詳しく覚えていると思うが・・・。

 

 

■育ての親

石垣さんは、校内でも顔が広い方だった。各運動部やスポーツの出来る学生に声を掛け、人を集めた。確か、半数は既にどこかの運動部に所属している学生たちだったと思う。彼らは名前を貸してくれた。名前貸しだけでなく、時には合気道の稽古にも参加してくれた。部創設2年目でサークルから部に昇格。4年目には大学から専用の道場を与えられた。部員も40〜50名の立派な合気道部に発展した。紆余曲折はあったにせよ、極めて順調に発展した。

 私は、四年で大学卒業。石垣さんはもう一年大学に残ることになった。それからの時の経過は省略するが、石垣さんはずっと学生の指導や面倒を見て、卒業したOBたちとも常に交流し一緒に稽古したり、指導したり、人生の相談にも乗ってきている。ずっとそうして来た・・・。

 

■赦し、赦される

私と違いお酒大好きな石垣さん。賛否いろいろあるだろうけど、今も現役の人たちを見守り、OBとの交流も深く続けている石垣さんの影響力は絶大だ。残念ながら、私は現役の中にも、OBの輪の中にもなかなか入れそうになく、今日に至っている。

石垣さんの素晴らしさは、人なつこく、人に温かい。さっと人の心の中に入って来る。時に土足で、相手が引いてしまうこともなくはないが・・・。

石垣さんの指導下にいたある人が、石垣さんをとんでもなく攻撃したことがある。私だったら「師に対して何という態度だ!」と絶対に許さなかったかもしれない。石垣さんはそれを心から赦していた・・・。だから、異端児と思えるような学生や道場生にも、その存在を認めてしまう。私とは真反対の対応だった。

こんな石垣さんだから、たとえ石垣さんがあまり好ましからぬ行為、発言をしても多くの人は石垣さんを赦してしまう。逆に、そんな石垣さんを周りで囲み守ろうとするくらいだ。

他の人が同じ行為をしたら、社会的にもつるし上げを食いかねないようなことも、何故か石垣さんなら赦される、ごく一部の人を除いて・・・。持って生まれた人徳なのか、不思議な存在だ。

よく考えたら、学生時代、石垣さんは優等生、一方私はやっと単位ギリギリで何とか卒業できた劣等生と言える学生だ。少なくとも勉強においては。品行も石垣さんの方がずっと穏やかで、明るく楽しく、私よりはるかに周囲の人たちの受けはいい。こんな石垣さんだったから、小林先生のご指導ご支援も十分に頂いて、石垣道場もつくり、そしてその活動を広げつつ、合気道界での確固たる位置についてる。

 

■合気道と平和

本題に入る。

石垣さんの道場は“A&P石垣道場”と頭にA&Pがついている。田口さんの道場もA&P田口道場、他にもA&Pを冠した道場がいくつかある。このA&P、Aは「Aiki」Pは「Peace」。もともとは田口さんが、Peace&Aiki(P&I)と提案した。私がA&Pの方がふさわしいと思ったら、A&Pになった。(私の記憶、合っていますか?)

ではなぜA&Pの方がいいと思ったか。それは石垣さんが合気道を生業として行くなら、Aiki=合気道が前面に出た方が他の合気道関係者から見て好ましい印象を受けるととっさに思ったからだ。もし、私の道場に冠をつけるなら、P&Aになるだろうともその時思った。私の意志はP=Peace=平和が先にあるからだ。A&Pは合気道を通して世界の平和に貢献する。P&Aは世界の平和を創るため、合気道を稽古し広めてゆく。

大ざっぱに言うと、こんな違いになるだろうか・・・。

 

■横軸と縦軸

「石垣さんと私は、合気道を通して世界の平和のために役立とう!」

とこんな話を何度もしたことがあると記憶している。その意識に沿って合気道だけでなく、世界の平和を祈る道も一緒に歩んできた。今でも二人の基本的な生き方は同じだと思う。

但し、明らかに個性の違いのようなものが生き方にも現れているように思えるし、そのことが何年も深く言葉を交わさない関係になっていたこともあるような気がしている。

たとえていうと、石垣さんは横軸を大切にする。即ち合気道を周囲に地域に、多くの人たちに広めて、合気してゆく素晴らしい資質、能力を持っている。一方私は、縦軸・・・。格好良く言えば、天と地の軸をつなげて結ぶことに強い関心がある。開祖の言われる「天之浮橋に立つ」である。

 

■力を合わせて

本来二人の関係がピッタリ一つになっていれば、この縦軸、横軸が十字に働き、最高・最善の合気道の姿が顕現される。一人一人の本来の生命が生き生きと輝き、地球全体、人類全体の平和に大きく貢献できる道筋をつけて動くことができると、私は確信している。

私の周囲の心ある人たちが、そう思い、私もそう願っている。いつか二人が力を合わせて、共に合気道の本来の道を歩みたいと、今も心から願っている。

 

 

 

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